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「ベツレヘムの星」の謎【改訂版】

(クリスマスネタということで、以前、旧サイトおよび本ブログに載せていたコンテンツを一部修正、追記して再掲します。この手の雑学、案外需要があるようなので……(^^;)




みなさんはベツレヘムの星」をご存知でしょうか?


こう聞くと、たぶんかなり多くの人が「はて?」と首をかしげると思います。でも実はみなさん、クリスマスシーズンになると必ず目にしているはずのものなのです。




クリスマスの頃、目にする「星」というと……そう、クリスマスツリーの天辺にある星。あれが「ベツレヘムの星」をかたどったものなのです。「ベツレヘムの星」はイエス・キリストが生まれたときに輝いたといわれる星です。聖書の記述を見てみましょう。

イエスがヘロデ王の代に、ユダヤベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。

…(中略)…

そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、
彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。
彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。

(財)日本聖書協会 聖書(口語訳) マタイによる福音書 第2章第1節〜第11節


……と、こんな具合です。となると、星や歴史に興味のある人なら、この星が何を指しているのかが気になるところ。同じように思った人はたくさんいるらしく、この「ベツレヘムの星」については昔から多くの人に研究され、その正体について様々な説が唱えられてきました。

イエスの誕生はいつ?


ベツレヘムの星」の正体を探るためには、まずはイエス・キリストがいつ生まれたのかを知らなくてはなりません。ところが、実は肝心のこの部分がハッキリしません。聖書に日付までは書いてないですし……。


ちょっと考えると、西暦はそもそもイエスの誕生(正確にはイエスの割礼)を元にした年数の数え方ですし、クリスマスは12月25日ですから、イエス誕生は紀元前1年*1の12月25日……としたいところです。しかし、西暦が定められたのはイエス誕生から500年以上もたった西暦525年のことで、もうこの頃にはイエスの誕生日はおろか、何年に生まれたのかすら分からなくなっていました。12月25日という日付にしても、キリスト教以前にローマの中心宗教だったミトラ教の主神ミトラスの誕生日*2をそのまま受け継いだだけのもので、ちゃんとした根拠があるわけではありません。


では、皆目見当がつかないかというと、そうでもありません。聖書の記述の中にいくつかヒントが隠されています。1つは、イエスの誕生がヘロデ王の在位中の出来事だったということです。ヘロデ王は紀元前37年にイスラエル王に即位していますから、ここから王が退位ないし崩御するまでの間にイエスが生まれた、ということになります。


ローマの年代学者フラウィウス・ヨセフス(西暦37〜100年頃)の「ユダヤ古代誌」によれば、ヘロデ王は「月食*3とそのあとの『過越しの祭』*4の間に」亡くなったのだそうです。ここで言う「過越しの祭」というのは、現在の復活祭(イースター)にあたるユダヤ教のお祭りです*5。そこで、紀元前4年ごろにイスラエルで見られた月食を調べてみると、下のようになります(アストロアーツ 「ステラナビゲータ12」を用いて計算)。


日時(食の最大)月食の種類次の過越しの祭食と過越祭との間隔
紀元前5年3月23日 20:22皆既紀元前4年4月12日~18日13ヶ月
紀元前5年9月15日 22:13皆既紀元前4年4月12日~18日7ヶ月
紀元前4年3月13日 2:42部分紀元前4年4月12日~18日1ヶ月
紀元前1年1月10日 1:10皆既紀元前1年4月8日~14日3ヶ月

紀元前5年3月の月食は、この年の過越しの祭(3月23日~3月29日)の真っ最中の出来事なので、候補からは外れます。紀元前5年9月の月食は、次の過越しの祭まで半年以上あり、「ユダヤ古代誌」に描かれたヘロデ王の病状やその他事件の時系列を考えると、ちょっと無理があります。


紀元前4年3月の月食は深夜の出来事で、当時としては見づらかったと思うのですが、前後のつじつまなども合わせて考えると、これが一番有力です*6。つまり、ヘロデ王が亡くなったのは紀元前4年で、イエスの誕生はそれ以前、ということになります。


また、聖書の中のヒントの2つめは「ルカによる福音書」です。その第1章にはユダヤの王ヘロデの世に」おいて、洗礼者ヨハネとイエスのそれぞれの母が身ごもったことが書かれています。


また、同第3章第1節には、洗礼者ヨハネが洗礼活動を行ったのがローマ皇帝ティベリウスの在位15年のことであること、同章23節には、イエスが宣教を開始したのがおよそ30歳の時だったことが記されています。ティベリウス帝の即位は西暦14年のことなので、在位15年の時点で西暦29年。この頃*7に「およそ30歳」なのですから、「およそ」の範囲を25~34歳と考えれば生誕年は紀元前6年~西暦4年となります。


以上のことから、イエスの誕生はおおよそ紀元前6年~紀元前4年頃のことだろうと考えられます。


なお、「ルカによる福音書」第2章には、ヨセフとマリアが、「シリヤ総督クレニオ」*8の行った人口調査のためにベツレヘムに赴き、その滞在中にイエスが生まれたという記述もあります。該当する人口調査としては、シリア総督プブリウス・スルピキウス・キリニウスの行なった西暦6年のものが知られていますが、前章の「ヘロデの世」という記述とは明らかに矛盾しています*9。なので、多くの聖書学者が、ここの記述は誤りないし文学的な意図*10をもって挿入されたものであろうと指摘しています。

en.wikipedia.org


ベツレヘムの星」の正体は?


さて、これでようやく本題の「ベツレヘムの星」の話ができます。


冒頭でも書いたとおり、「ベツレヘムの星」の正体についてはおびただしい数の説が出されています。しかし、イエスの誕生した時期をある程度特定することができましたので、古天文学の流儀にのっとり、過去の文献にそれらしい天文現象の記述がないかどうかを確かめることで、候補を絞り込むことができます。


とはいえ、「ベツレヘムの星」の候補はあまりに数が多すぎて、とても紹介しきれません。ここでは有名なものに限ってご紹介しようと思います。


新星・超新星


明るい星が突然現れたと聞いて、誰もが真っ先に思い浮かべるのがこれでしょう。どちらも星に関係する爆発現象で、それまで暗かった星が急激に明るさを増す現象です。特に超新星の場合、その明るさの増え方は文字通り爆発的で、マイナス等級に達することもあります。こんなものが突然現れたら、たしかに間違いなく目を引くはずです。


この説を唱えた人としては、惑星運動の法則で知られるヨハネス・ケプラーが有名です。ケプラーは1604年春に木星土星へびつかい座で接近するのを観測していました。これを引き続き観測していたところ、10月に火星が接近し……そして事件が起こりました。なんとこの3つの惑星のすぐそばで、超新星が輝き始めたのです。この超新星は-2.5等にまで達し、のちに「ケプラー超新星」と呼ばれることになります。




上の図は、1604年10月7日午後7時のプラハにおける西空の様子です(ケプラーは当時、プラハにいました)。火星、木星土星が集合しているすぐそばで、超新星が鮮烈な光を放っています。超新星はこの頃が最大光度で、木星並みの-2.5等にも達したと考えられています。


これを観測したケプラー木星土星が会合し、そこに火星も加わると新星が現れる」と考えました*11。ここでケプラーはさらに、「ベツレヘムの星はこのような新星ではなかったか?」と思いつきます。計算してみると、まさに紀元前7年に木星土星うお座で会合しており、その翌年、ここに火星も接近していたことが分かりました。このことからケプラーは、「ベツレヘムの星」とはこの時の木星土星の会合と火星の接近によって生まれた新星だと考えたのでした。




上の図は、紀元前6年2月25日午後6時半のエルサレムにおける西空の様子です。1604年と同様、火星、木星土星が集合していますが……もちろん、現在では新星・超新星と惑星の会合とはまったく関係がないことが分かっていますので、この説は却下せざるをえません。


このほか、

  • 「マタイによる福音書」第2章第9節にある「彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。」という記述を文字通り「星が天頂にあった」と解釈し、「ベツレヘムの星」をアンドロメダ銀河*12で発生した超新星であったとする説*13 *14

などがありますが、いずれも対応する超新星残骸が確認できないなど物証に乏しく、決め手に欠けます。


また、中国などの古い記録を見ても、この頃、目立った新星や超新星が現れた明確な記録(「客星」や「大客星」と書かれたものなど)はなく、「ベツレヘムの星=新星・超新星」というのはちょっと考えにくいと思います。


彗星説


突然現れる天体というと、彗星も思い浮かびます。実際、14世紀のイタリアの画家ジオットは1301年に現れたハレー彗星を見て、ベツレヘムの星はこのような彗星だったろうと考え、下のような絵を残しています*17



「東方三博士の礼拝」1305年頃 スクロヴェーニ礼拝堂


昔の記録を調べてみると、まず、中国の「漢書」天文志に「(建平)二年二月,彗星出牽牛七十餘日。」(建平二年(紀元前5年)二月、七十日余りにわたって彗星が牽牛に現れた)という記述があります*18。ちなみにここで言う「牽牛」、現在はわし座のアルタイルのことを指しますが、ここでは現在のやぎ座に相当する「牛宿」を指します。


また、同じく「漢書哀帝紀には建平三年(紀元前4年)の項に「三月己酉,(中略),有星孛于河鼓」(三月己酉つちのととり、河鼓に星孛せいはい有り)という記述があります。ここで「星孛」は尾のない彗星のこと*19、「河鼓」はわし座のアルタイル周辺にあった星座のことです。


さらに、高麗の「三国史記新羅本紀 卷第一 始祖赫居世居西干にも「五十四年春二月己酉,星孛于河鼓」という記述があります。赫居世の治世54年目は紀元前4年なので、後者と同一の天体……と思いたいところですが、この年の2月に己酉つちのととりの日は存在しないので、「乙酉きのととり」を「己酉」と書き間違えた、あるいは年月を間違えたなど何らかのミスの存在が疑われます。牽牛(牛宿)と河鼓は隣接していることもあり、この記述が「漢書」に書かれたどちらの天体を指しているのかは判然としません。。


ともあれ、紀元前5年~紀元前4年に現在のやぎ座~わし座の領域に何らかの天体が現れたのは確かなようで、わざわざ記録が残っているあたり、それなりに明るかったのでしょう。しかし、こと彗星に関して言えば、アリストテレスの昔から彗星は大気中の現象だと考えられていましたし、古今東西、どちらかというと不吉な前兆と考えられていたことを思うと、「彗星=ベツレヘムの星」とするこの説もちょっと弱いです。


なお、「漢書」などに書かれた天体が、天文学的な意味での「彗星」ではなく、それこそ新星や超新星の類である可能性もなくはありません。ただ、同書において、新星の類を表す「客星」という言葉は普通に使われているので、ここでだけわざわざ「彗星」や「星孛」を新星の表現として使ったと考えるのはいささか無理がある気がします。


惑星の会合説


惑星同士が接近する「会合」も有力な候補の1つです。最も有名なのは、先に「新星・超新星説」のところでお話しした、ケプラーの見つけた木星土星の会合です。実はこのときの会合、木星土星がわずか半年ほどの間に、3度にわたって接近を繰り返した珍しいものです。超新星がなかったにせよ、これが博士たち*20の興味を引いた可能性はあります。




図は、紀元前7年3月から約1年間の惑星の動きを10日ごとに示したもので、木星土星は紀元前7年5月27日、紀元前7年10月4日、紀元前7年12月1日の三度にわたって接近を繰り返しています。さらに紀元前6年2月には、ケプラー超新星発生の原因と考えた火星との接近も発生しています。


ただ……ユダヤの東方、バビロンで発見された当時の粘土板(BM 35429)の記録*21を見ると、

第7月。1日は前月の30日の翌日である。木星土星うお座、金星はさそり座、火星はいて座にあった。2日は春分であった。

第11月。1日は前月の30日の翌日である。木星土星と火星がうお座にあり、金星がいて座にあった。13日には金星がやぎ座に到達した。

……といった感じに事実が淡々と書かれているのみで、特に惑星の会合が注目されていた感じはありません。


この説を主張する人たちの中には、この「三連会合」がユダヤ人にとって特別な星座である「うお座」で、「王」を表す木星と、当時最遠の惑星……転じて「盾」や「砦」を意味する土星とが会合することから、「ユダヤの守護者にして王である偉大な人が生まれる」と解釈できるのだと言う人もいます。


思わず納得してしまいそうな話ですが、実はこの話、まゆに唾つけて聞かなければなりません。「うお座ユダヤ人にとって特別」とされる理由、ギリシャ語で「イエス・キリスト、神の子、救世主」(ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ)の頭文字をとって並べるとΙΧΘΥΣ(イクトゥス。ギリシャ語で「魚」の意)になるからだというのですが……どう考えても後知恵のこじつけです。


それに、上で書いた「まゆつばモノ」の話を抜きにしても、この説には1つ大きな弱点があります。それは聖書においてこの星のことが「単数形」で書かれているという点です*22キリスト教では「聖書の言葉は全て真実」というのが原則ですから、「ベツレヘムの星」は1つの星か、あるいは1つに見えるほど接近した複数の星、と考えざるを得ません。ところが、上で書いた「三連会合」の場合、土星木星が最も近づいたときでも満月2個分は離れていて、とても1つの星には見えません。




1つの星に見えるほど惑星が近づいた例としては、紀元前2年6月17日に起きた金星と木星の大接近があります。このとき、両者は角度にして35秒(この時の木星の視直径と同程度。1秒=1/3600度)しか離れておらず、まさに1つの星のように見えたはずです。しかし、残念ながらヘロデ王が亡くなった後の出来事であり、年代的に合いません。




また、惑星同士ではありませんが、紀元前3年から紀元前2年にかけて、木星がしし座の1等星レグルス(占星術では「王」を表します)に接近を繰り返しています。しかしこちらもヘロデ王が亡くなったあとのことで、当てはまりそうにはありません。


木星食説


アメリカの天文学者マイケル・R・モルナー(Michael R. Molnar)によって発表された比較的新しい説で、紀元前6年3月と4月に連続して起こった木星食が「ベツレヘムの星」なのではないかというものです*23。食はいずれもおひつじ座の領域で起こっていますが、彼によれば、このおひつじ座こそユダヤを象徴する星座で、そこで「王」を象徴する木星が月と重なることは占星術的に大きな意味があるのだと言います。




最初の木星食は3月20日のこと。エルサレムでは日没の30分ほど前に月齢15時間の細い月に木星が隠され、33分後に出現。その後25分ほどで月と木星が地平線に沈んでいます。


もっともこの現象、空が明るい上に高度10度前後の低空で起こった現象なので、見るのはかなり難しいはずなのですが……当時の占星術師たちは、かなり正確に惑星の動きを予測できたと考えられています。だとすれば惑星の会合や食も予測できたと思われ、当然、この木星食も予測されていたはずです。そして、占星術では現象が実際に見えるかよりも、その場所の上空で起こるかどうかが重視されるのだそうです(つまり昼間の現象であっても、天体が地平線上にあればよい)。そう考えれば、この木星食もたしかに候補になりえます。




そしてこの1ヵ月後の4月17日、再び木星食が起こります。エルサレムでは11時半過ぎのことです。もちろん昼間のことなので肉眼では見えませんが、これも計算で予測できたとすれば問題ないでしょう。


冒頭に引用したとおり、聖書によれば、博士たちは出発前とエルサレムについてからの計2回、星を「目撃」していますので、博士たちが1ヶ月ほどかけて旅をしてきたと考えると、ちょうどつじつまが合います。食の起こった方角も、1回目の木星食は西の空、つまり博士たちのいた「東方」から見たユダヤの方角にあたり*24、2回目の木星食も南南西の空、すなわちエルサレムから見たベツレヘムの方角とおおよそ一致しています。


加えて、「星を見た」という博士たちの話を聞いてヘロデ王が驚いているあたり、「普通の人には見えなかった」(占星術師だからこそ分かった)と考えれば、実際に見えなかったとしても不都合はないでしょう。


この説に従うと、イエスの生誕は紀元前6年のことと言うことになりますが、この場合、ヘロデ王崩御した時点(紀元前4年)でイエスは2歳。「マタイによる福音書」第2章第16節によれば、ヘロデ王は「博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺し」ており*25、ヨセフ以下3人は危険を察して事前にエジプトに避難しているのですが……ヘロデ王がわざわざ「二歳以下」を虐殺の対象にしたことと矛盾しません。


……とはいえ、個人的な感想としては「実際には見えない」現象が救世主誕生の知らせ、というのは、占星術的に意味があるにせよ、やはりいくらなんでも地味すぎるように思います。よくできた説だとは思うのですが……。しかも、ホロスコープの解釈は流派によっても違えば、後付けでどうにでも出来る曖昧さもあり、そこに論拠を置くのは割と危険な気がします。




以上、「ベツレヘムの星」についての色々な説を見てきましたが、どれも一長一短といった感じで、「これだ!」と断言できるような現象はないようです。実際のところ、聖書研究者たちによれば、聖書に描かれたイエス誕生の物語はその大部分が作り話だろうということが言われています。「ベツレヘムの星」も、具体的に何かの天文現象があったというわけではなく、救世主が生まれたことの単なる象徴と考えた方がよいのかもしれません。


でも、そう言ってしまうと元も子もありません。せっかくのクリスマスです。夢にあふれるこんな話も、たまにはよいのではないでしょうか?

*1:「西暦1年」の前の年は、「西暦0年」ではなく「紀元前1年」になります。

*2:では、なぜミトラスの誕生日が12月25日なのか?ということですが、この時期はちょうど冬至に当たり、これ以降はだんだん日が伸びてきます。つまり、太陽神であるミトラスが復活する日、ということでお祭りが行われていたのです。イエスも太陽神の生まれ変わりと考えられたり、一度死んで復活したという伝説と重なることから、同じ時期をイエスの誕生を記念する日としてお祝いするようになったようです。

*3:ユダヤ古代誌」第17巻第6章第4節

*4:ユダヤ古代誌」第17巻第9章第3節

*5:ユダヤ暦で言うところの、ニサン月15日~21日まで行われます。

*6:ユダヤ古代誌」によれば、ヘロデ王月食から過越しの祭までの間にカリロエ(現在のアイン・アル・ザラ)の温泉に療養の旅に出ています。紀元前4年説だと過ぎ越しの祭までの間に療養の旅に出る時間が短いということで、紀元前1年の月食を推す説もありますが、この場合はヘロデ王崩御後の王位継承等のつじつまが合わなくなります。

*7:イエスはヨハネによる洗礼の後、40日間荒野での試練を受け、しかる後に宣教を開始しています。つまり、両者の間にそれほど時間差はありません。

*8:口語訳での表記。新共同訳では原典通り「キリニウス」となっています。

*9:加えて、ローマの人口調査では人々が先祖の地へ出向く必要はなかったと言われており、そこも矛盾しています。

*10:この人口調査はユダヤ過激派の反乱を引き起こしたのですが、それとヨセフ、マリアの従順さとの対比を狙った等。

*11:当時は新星や超新星の正体など知る由もなかった点に注意。さらに、ケプラー占星術師だったというバックボーンも、この解釈におそらく関係しています。

*12:当時のエルサレム付近ではほぼ天頂にまで昇ります。

*13:Tipler, F. J. (2005) "The Star of Bethlehem: A Type Ia/Ic Supernova in the Andromeda Galaxy?" The Observatory, 125, 168–74

*14:ちなみに、爆発したのがIa型超新星であった場合、ガスや塵による減光がなければおおよそ5~5.5等程度で見える計算になります。系外銀河で見える超新星としては明るいですが、救世主誕生の兆しとしては少々……(^^;

*15:Morehouse, A. J. (1978) "The Christmas Star as a Supernova in Aquila" J. Roy. Astron. Soc. Can., 72(2), 65-68

*16:続く「彗星説」に出てくる「漢書」の「彗星」や「星孛せいはい」の記述を超新星のことと解釈し、根拠としています。

*17:残念ながらハレー彗星について言えば、イエス誕生前後に太陽に近づいたのは紀元前12年のことで、いささか古すぎます。

*18:ただ、現在の天文学的な意味での「彗星」と考えると、70日以上にわたって見えていたにもかかわらず、その移動について何も書かれていないというのはやや不審に感じます。

*19:ただし、こちらも現在の天文学的な意味での「彗星」とイコールであるとは限りません。

*20:口語訳の聖書では「博士たち」と訳されていますが、ギリシャ語では「Magi」(占い師)であり、いわゆる占星術師だったろうと言われています。だからこそ、星を見てイエスの誕生を知ることができたわけです。

*21:Sachs, A. J. and Walker, C. B. F. (1984) "Kepler's View of the Star of Bethlehem and the Babylonian Almanac for 7/6 B.C.", IRAQ, 46(1), 43-55

*22:古代ギリシア語でἀστέρα(アステラ)。複数の星なら複数形のἀστέρες(アステラス)と書かれているはずです。なお、「マタイによる福音書」は元々ギリシア語で書かれていたという説が有力です。

*23:Molnar, M. R. (1995) "The Magi's Star from the Perspective of Ancient Astrological Practices" Q. J. R. Astr. Soc., 36, 109-126

*24:しかもユダヤを象徴するおひつじ座で現象が起こっています。

*25:もっとも、この虐殺は歴史的事実としては確認されていません。